クロムの頭の中

好きなもの、気になるものを綴るブログです。

初投稿がこんなんでいいのか!?『現実』って何?哲学してみた!

どうも。哲学とゲームを愛するクロムです。

初ブログの記事がこんなんでいいのかわかりませんが書いてみます

 

です・ます調とだ・である調の使いわけですが、挨拶と本文で切り替えようと思います。いずれは統一しようともいますが、今回は実験的に分けます。

 

初回は私の考え方の根源、哲学に興味を持ったきっかけを語りたいと思います。

では、本文をどうぞ。

 

私は哲学が好きだ。

自己紹介でこんなことを言う奴は大抵変態だ。私がそうだから。

軽いノリで聞かれると「頭の固いやつ」「小難しくてノリ悪そう」「一周回ってバカ」と散々なことを思われる。

聞いても無いのに「好きな元素は元素番号24番のクロムです!」と答える奴も変態だろう。そんなこと言う奴がどこにいるって?

私だ。

それとなく私のニックネームの由来を語ったところで本題に入る。

 

私は哲学が好きだ。

哲学というは具体的に「こんな学問です」とは答えられない。

でも哲学が好きなのだ。

昔は知の探究全般が哲学とされていたそうだが、

はっきりしない問題を「なんとなく答えてみた」というのが哲学だと思っている。

※これは私の認識であり、哲学者からしたら否定されるかもしれない(予防線)。

その哲学の世界に入ったきっかけといえば間違いなく「マトリックス」だ。

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マトリックス

 

マトリックスはスローモーションで仰け反りながら弾丸を避けるスタイリッシュハイスピードアクション映画という認識かもしれないが、その世界観は実に哲学的だ。

 

見てない方の為に簡単に説明すると

遠い未来、機会生命体に地球を乗っ取られた世界。人類は機械が生み出した電脳世界で、機械に飼育されながら生きているという真実を知らないまま日常を生きているのだった。

 

映画中盤、主人公は「機械に反抗する勢力」からこの世界の真実を告げられる。

主人公はこの世界が機械によってつくられた電脳世界ではないとどうして言える?」と問われ、困惑する。

 

この世界観が非常に哲学していて非常に面白い。

この世界という基盤自体がそもそも「現実」ではなく、機械に支配されて頭にプラグが刺さっている方が「現実」であるという。

 

『「現実」って何?ここで生きてる自分は「現実」じゃないなら「嘘」なの?』

 

この根源的な問いに対して一定の解を得ようとするのが「哲学」である。

 

ソードアート・オンライン(以下SAO)という作品でも同じような話がされている。

マトリックスは1999年の作品だからこちらの方が参考になるかもしれない)

主人公キリトの一騎当千な活躍とハーレム加減からウザさを感じている方も多いだろうが、バーチャル空間は現実か否かなどの問いを積極的にしている作品でもある。

 

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アニメ第3期放映中のSAO

SAOの世界では「ゲーム内の死」が「現実の死」に直結するという世界観で、ゲームはただのゲームではなく現実だと言うことを表現した。

「ゲームはただの空想だ」と切り捨てる大人と

「ゲームは現実そのものだ」と主張し対立する子供というシーンも描かれる。

 

ここでも「現実」というあやふやなモノがどこにあるのかが扱われている。

「現実」とはどこにあるのか。

「ここ」が「現実ではない」なら「私」とは一体何者なのか?

「私」自身「ここ」にはいないのか?

 

あーもーそんなことは知らん!!!

分からん!!!

「ここ」が例え超超超高性能なスーパーコンピューターの電脳世界の中でも

世界が嘘っぱちでなんにもなくても!

「私」は「ここ」にいる!!!

絶対に「私」は存在している!!!

 

これが「我思う故に我あり」と言ったルネ・デカルトの答え(命題)である。

 

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デカルト肖像画

哲学的な問いには基本的にあまり答えがない。

何故ならあやふやな問いに対して、あやふやにしか答えられないからだ。

しかも、答えが複数ある。

人によって違う。

前提が違うという人もいる。

はっきりとした答えがあまりない哲学の中で、数少ないはっきりした答えが

「我思う、故に我あり」である。

 

もし世界を含めたあらゆるものが嘘だとして、それでもなお嘘でないものは自分自身だ!

私はこの考え方に非常に共感した。

超共感した。

あぁ、なるほどと。

涼宮ハルヒもびっくりなくらい共感した(涼宮ハルヒは哲学者)。

自分自身の存在証明は既に為されているのだと。

心の中で何か揺れ動かない芯のようなものが出来た。

 

たとえこの世界が上位世界によってつくられた仮想のものであったとしても、その中で生きている自分だけは本物であると。

その本物である自分自身を疑ってしまうことこそが、自分を本物たらしめている証左なのだと17世紀の人が言っていたことに驚いた。

 

なんとなく「自分」や「現実」について疑問に思っていたことが

マトリックスによってはっきりとした形で問題提起され、

デカルトの言葉によって解決(納得)した。

これが私の哲学の第一歩であった。

 

以上!

 

(以下蛇足)

 

ん?

もっと何かあるだろって?

そんなものはありません。

 

哲学ってそういうもんなのです。

哲学ってのは変な問いを永遠に悩むより、どっかで納得することが重要だよってのを教えてくれます。

それが普遍的な問いに普遍的な答えでなくてもいいです。

超個人的な問題でも哲学するのが大事です。

今回は『「現実」って何?ここで生きてる自分は「現実」じゃないなら「嘘」なの?』

という比較的広範な、陥りやすい問いに対してわかりやすい答えがありました。

 

それを紹介したいだけの記事!でした!!

 ここまで読んでいただいてありがとうございました!!

硬い文章の方が書きやすかったんで、だである調(常体)を使いましたが

ブログっぽくないんでもっと砕けた文章にしようと思います。

 

次回!

『守るべきものがある人』vs『守るものがない人』どっちが強い!?

哲学的に検証してみた!